阪神淡路大震災から25年。生と死から命について考えて見た

2020年1月18日

生と死の境界線について

僕は知らない1995年1月17日5時46分52秒の時のことを。正確に言えば記憶にない。その時僕はお腹にいたから。その歳の7月に僕は誕生した。

あの日あの時あの地震に遭い生き延びた人と亡くなった人それは一体なんだったのだろうか?

それは運以外の何者でもないと思う。よく生まれた瞬間からその人の運命は決まっていると言われている。変えようとしたとしてもそれも含めもう決定していると。

あの日生き延びた人は生きる運命にあった。逆に亡くなる人は亡くなる運命にあったと…

確かに運命が既に決まっているとすると、もう自分で変えることができないのだから運を天に委ね、なるようになれ精神で生きることになるだろう。

しかし人間は分からない。難病から奇跡的に治った人、事故に遭い大手術の末元通りの生活ができるようになった人などやはり人間は運命だけでは語れない部分があるのもまた事実だと思う。

あの震災から25年、失意の内亡くなった人の多くは夢や希望があっただろう。でもそれはもう叶わない。

でも生きている僕またはあなたはまだ夢や希望を持ちそれを叶えることができる。

そして生きている僕らにもいずれ死が来る。それは50年先かもしれないし、明日かもしれない。だから最近後悔しないように1日1日生きたいと思う。

でも現実世界自分の思うようになかなかうまくいかない。

その複雑なリアル感が生きていることなのではないか?と思う。

最後に書いててなんだこの訳わからんくっさい文章はと我ながら思った。ただ思ったことを書き殴っただけです。決して病んではないので。